Y(妖怪)系カノジョ(第2話)

放課後、部活の助っ人を断り、翔は正面玄関の下駄箱前の柱に身を潜めた。何人も見送ったあと、鏡華がやってきた。靴を履き終わるのを見届けてから後を追う。不穏な気持ちを隠し、それとなく偶然を装って、正面玄関を出たところで声をかけた。
「水明先輩、いまお帰りですか」
「あなた昨日の。橘さん、でしょう。鳳凰館の縁結びの」
名前を知られていたのと、綺麗な黒目がちな瞳に、翔は言葉を失ってしまう。
何を赤くなっているんだと照れながらも、鏡華と一緒に歩き出した。日が長くなっただの帰りの道順だのと当たり障りない話をしながら校門を後にし、住宅地、商店街を抜ける。バス通りへと近づいてきた。勢いにまかせ、翔は鏡華へ顔を向けた。
「先輩、昨日の男たちは全部先輩が倒したんですか」
「どうしたの、急に」
「それに今日たまたま見たんですけど、バスケの授業の先輩の動きは普通じゃありませんでした。先輩は何者なんですか」
「んー」
表情を変えず、鏡華は小首をかしげる。その首筋の白さがなまめかしい。
「儂(わし)も気づかんうちにできるようになってのう」
言葉遣いに違和感を覚えたのが後回しになるほど、奇妙な色気があった。その様子からとぼけているふうではないのだが……。
翔が見とれたのも一瞬で、次には背後に鏡華をかばっていた。格闘家の本能で、前方からの邪悪な視線を察知したからだ。
「先輩、逃げてください」
翔の視線の20メートル先には黒服の男たちの姿があった。一見してただの集団だ。しかし、翔にはそれが鏡華を狙う敵だとわかる。
全員で8人。強さは並程度。相手に不足はないが、昨日のことがある。油断できない。
男たちがゆっくり近寄る。相手が攻撃可能圏内に入ったのを認めた翔は間合いを詰め、男の一人の脇腹へ鋭い回し蹴りを喰らわせた。男は勢いをつけて倒れる。ところがふらつきながらだが立ち上がった。
<また?! おかしい>
翔は素早く拳を構える。普通ならいまの一撃で肋骨が何本も砕けて起きあがれない。
男が呻いた。
「おまえか。強い護衛というのは――」
全部言い終わるより早くローファーと学校指定の黒いソックスの両足が男の顔面を砕いていた。
鏡華だった。表情を変えないまま、倒れた男の顔の上に両足をそろえて乗っている。体重をかけていないのに、男の顔に鏡華の両足がめり込んでいく。
<先輩、逃げてなかったの>
二人を取り囲んでいた男たちも一瞬の出来事に固まっていた。風に長い黒髪を遊ばせながら、鏡華はふと我に返ったような顔になった。
「思い出した」
骨の折れる嫌な音を靴の下でさせながら、鏡華は顔を上げる。男たちが動くより先に鏡華はその場から後ろへ跳躍して翔の隣へ着地する。すぐさま翔を楽々と抱き上げて通路脇のガードレールの上に飛び乗った。
「捕まえろ!」
男の一人が叫び、呼応するように男たちが鏡華につかみかかる。それを大きく跳躍してバス停のアクリル板の上に、店の屋根に、とステップを踏むように移動する。相変わらず鏡華は涼しい顔をしたままだ。
「あの、先輩、思い出したって、何を」
「今日は『ジャンプ』の発売日じゃ。忘れとったわ」
「なんでいまそれ!」
「早く行かんと売り切れるんじゃ。松竹梅書房は在庫が少ないからの」
「コンビニでいいでしょ。てか、あいつらどーすんですか!」
「儂、本は町の書店で買う主義なんじゃ。あいつらの相手しとる暇はない。早よせんと学校帰りの小学生に負けてしまう」
鏡華と同じように男たちも跳躍して店の屋根へ飛び移る。もはや人間業ではなかった。
「烏天狗」
鏡華の声に応えるようにバサバサと大きな鳥の羽音が聞こえた。上空から影が迫り、見上げた翔は目を見開いた。
真っ黒な大きな鳥が何羽も空から舞い降りてきたからだ。恐怖を覚えて反射的に身をすくめる翔に気づき、鏡華はさらにしっかりと抱きとめる。
大きな鳥たちは鏡華を囲むように降り立つ。それは鳥ではなく真っ黒な翼を背にした大柄な人間の男たちだった。
山伏の格好をし、手には錫(しゃく)杖(じょう)。足の高い下駄を履いている。顔には天狗の黒い面をつけていた。いや、果たして面なのか。顔と面の境目がない。鏡華は厳しい声で指示を出す。
「やつらを相手せい。儂、野暮用がある」
「御意」
一糸乱れぬ声で烏天狗たちは頷き、男たちに向かって行った。鏡華は翔を抱えたまま軽々と屋根から屋根へと飛び移る。
「危ないから連れて帰るぞ。しっかりつかまれ」
「先輩、これは一体……」
「ああ、夕飯の支度もさせるから安心せい」
「あの、そうじゃなくて」
「銀ダラの西京焼きでよいか。儂、魚が好きなんじゃ」
「そっちの話じゃなくて! 先輩は何者なんですか!」
「儂? 前にぬらりひょんと呼ばれておったわ」
事もなげに言いながら、鏡華は飛ぶように屋根から屋根へと跳躍を続けた。

「豚肉しかない?! 西京焼きがないのか!」
珍しく顔に出してショックを受けていた鏡華だったが、アツアツの生姜焼きを出されたら「うまい!」と秒で立ち直った。家政婦のキミコさんは鏡華の扱いをよく心得ている。
鏡華の家は大きな日本家屋だった。何百坪の敷地なのか初めて門をくぐった翔にはわからない。よく手入れされた和風庭園の池には橋がかかっていた。深窓の令嬢だとは思っていたが、まさか本物だったとは。いまさらにして翔は緊張してしまう。
「この家には儂(わし)とキミコさんしかおらん。両親は二人一緒に海外へ演奏に行っておって、帰ってくるのは半年後じゃ。安心してくつろげ」
なんとなく家族構成はわかった。それにしても、と翔は思う
<落ち着かない……>
部屋は畳の和室だが、光沢のあるダイニングテーブルと座り心地の良い椅子が設(しつら)えてある。窓には障子。床の間には高価そうな掛け軸と、高名な陶芸家が造ったであろう一輪挿しに、決して安くなさそうな花が活けられている。全体的に和モダンな高級感に溢れているのだ。きっと生姜焼きの皿さえ銘入りだろう。
そのうえいきなりの鏡華と差し向かいの食事だ。緊張しないわけがない。キミコさんの料理はおいしいのに、なかなか食が進まないのはそのせいだった。
一方の鏡華はまったくペースが崩れない。とくに会話もせず、食事を品よく綺麗に平らげる。おばあちゃん家政婦のキミコさんも良いタイミングでお皿を下げにくるあたりは真正のプロだ。緑茶が出された。キミコさんが下がると二人とも一息ついた態(てい)になった。
「すまんな、巻き込んで」
湯呑の底にまっすぐな指を添えて音もなくすすったあと、鏡華が詫びた。
「先輩、昨日から先輩を襲ってきた男たちは誰なんですか。それに先輩を助けた人たちは誰で、先輩は何者なんですか」
「一つ一つ答えれば、男たちの正体はわからん。助けたのは烏天狗。儂はぬらりひょんじゃった」
「いまひとつ要領を得ません」
「では逆から答えようかの。つい最近まで儂も生まれる前の記憶など持っておらんかった。和楽器演奏家の両親の一人娘として平々凡々に育てられ、凡庸な人生を送っておった。ところが昨日、地上に迫るのかと思うほど大きな赤い月が見えた。それから奇妙な匂いがして、気になってそちらのほうに歩いて行ったら昨日の男たちがいた。そして今日、襲われそうになって、はっきりと自分がぬらりひょんじゃった前世の記憶を思い出した」
この見るからにセレブな生活を平々凡々というのかはさておき、防衛本能で能力が呼び覚まされ、危機意識から記憶が覚醒したのだろう。いわゆるショック療法だ。
「おまえはぬらりひょんを知っておるか」
「はい。日本妖怪の総大将といわれる最強の妖怪ですよね。本やアニメで見たことはありますが、それくらいしか知識はありません」
翔は宇宙人のように後ろ頭の出っ張った着物姿の小柄な老人を思い出す。とてもいまの鏡華とは似ても似つかない。そういえば、ぬらりひょんの風体は最強のわりには強そうにも怖そうにも見えない。鏡華はお茶を音もなくすすり、うなずく。
「知っておるなら話は早い。烏天狗は仲間の妖怪じゃ。しかし、儂を襲ったやつらの正体はいまだにわからん。じゃから、情報に精通する者に訊こうと思う」
湯呑をおいた鏡華は仕切りになっていたふすまを開け、電気の消えている暗い奥座敷に向かって呼びかけた。
「青(あお)女房(にょうぼう)」
闇の中に何かがふっと湧きあがった。それは十二単を着て、髪を裾に届くほど長く垂らした平安型大垂髪(おすべらかし)の女官の伏した姿に変わった。
「かしこまるな。顔を上げい」
「お久し振りどす、総大将はん」
あげたその顔を見て、翔は悲鳴を喉の奥で抑えた。眉毛の太い青鬼だったのだ。
「総大将はん、えらい可愛(かい)らしなりましたなぁ。そちらの姫(ひい)様(さま)はお友達で」
笑顔を作ると大きな口からお歯黒で黒々と染めた歯がむき出しになる。
「橘翔です……」
翔は声が震えないように気をつけながら挨拶する。強い対戦相手に恐れおののいたりしないが、得体のしれない怪異にはさすがに恐怖を覚える。
知ってか知らず、青女房は真っ黒な歯でニタリと笑みを返す。翔は耳の後ろの髪の毛まで逆立つほどの怖気(おぞけ)を覚えた。
鏡華は青女房に向き直り、真剣な顔になる。
「挨拶もそこそこに悪いのう。儂、昨日から人外と思ぼしき者に狙われておるんじゃ。情報通のおまえに訊くのが一番早いと思っての」
鏡華は昨日からの出来事を青女房に説明した。神妙な顔をしていた青女房が聞き終わるとさらに難しい顔になって翔を怖がらせた。
「嘘やと願(ねご)うとったんどすが。近々魔界の扉が開かれるそうどす。やって来るのんは耶蘇(やそ)教系悪魔たち。場所が西洋どしたら問題のうどすも、座標軸がずれたんか、開かれる先は日本なのどすえ」
「それでか。儂には大きな赤い月が見えたわ。あれは異界の扉が開く前触れ」
「そうどす。自分らの襲来を日本妖怪たちが侵略ん危機とみて襲うてくると想定しぃ、先手を打とうとしはる動きが魔界の者(もん)らにあるらしおす。どうも、総大将はんの存在に気づいて覚醒しはる前につぶそうと刺客を送ってきたのちゃうかと。中でも一番神経をとがらせとったのんが、魔界の四大貴族の一人、アスタロトいう悪魔とか」
「めんどくさいのう。儂、外国語は話せんのだが」
「そこどすか。総大将はんは変りまへんなあ。そもそも心で会話するアテら妖怪に言語は関係あらへんどす」
「話を通せばわかるかの」
「そないな相手やあらしまへん」
「あの、いいですか」
翔がそっと手を挙げて発言した。
「魔界の扉が開いて悪魔がやって来るというのは全世界の危機なのでは」
フフと青女房は優しく笑いかける。もちろん、唇を全開にしているので真っ黒な歯が剥き出しだ。
「悪魔は西洋にはどこにでもいてはりますが、それ自体は災厄をもたらしまへん。人間を誘惑し堕落さすのが彼らの仕事。直接の危機にはならんのどす」
「それほど怖い存在じゃないってことですか」
「ただ、数が多いと堕落しはる人間が増えるどす。堕落した人間らをさらにあおってこの世を破壊に導くのどす。そないなる前に天界におる耶蘇教系天使らが黙ってまへんが。やから言うても、天使らは人間を助けても人外のアテらを助けたりせんのどす。アテらが天使と悪魔の戦いを助けんのと同様に」
「それでは、事前に耶蘇教、つまりキリスト教系天使に協力してもらえないんですね。天使と妖怪で悪魔を倒したら世界が平和になるのに」
「悪魔の撲滅は、天界のさらに上の界にいるヤツが何かと困るんじゃろ。善悪の均衡がどうのと」
鏡華は右手を閉じたり広げたりとわきわきしながら不満げにつぶやく。
「それにしても野蛮な奴らよのう。まずは問答無用に力で地ならしか。しかも避けられん。つくづく蛮族らしい発想じゃ。して、扉はいつ開く」
「赤き月がもっとも大きゅう育つ頃、とか」
鏡華は立ちあがって窓の障子を両開きにあけた。翔も座ったまま夜空を仰ぎみる。窓ガラスから外を見るが出ている方向が違うのか月は見えない。鏡華は夜闇を睨む。そして面白くなさそうに障子を閉めた。それでも静かに閉めるあたりは育ちの良さが隠せない。
「ふん、よう育っておるわ。あと一週間もせんうちじゃな」
おそらく妖怪の目には赤々と燃える巨大な月が見えるのであろう。人の目に映るものがすべて真実ではないように、月もまた本来の姿を隠しているのか。座りなおしてまた右手をわきわきさせる。
「儂は妖怪どもに声を掛け、妖力(ようりき)の弱い者には避難命令を出す。強い者は防衛の準備をさせる。すまぬな、翔。巻き込んでしまった」
急に名前を呼ばれて翔の鼓動が高鳴った。鏡華は妖怪の総大将然として続ける。
「今後おまえに悪魔どもが手出しをせぬよう護衛をつける。いままでどおりの生活を送れるよう儂が手配するから安心せい」
翔は首を振った。
「先輩、私も戦わせてください」